かつてあった"メタボリズム運動"

橘川雄一|2024.7
「建築」ではかつて"メタボリズム"という言葉を使った建築ムーブメントがあった。
メタボリズムの本義は新陳代謝(新しいものが古い(=陳)ものと次第に入れ替わること) であり、余分な皮下脂肪が溜まった身体のことではない。

1970年代、菊竹清訓、大高正人、黒川紀章らが"メタボリズムムーブメント"を引っ張った。
一に、
菊竹清訓設計(手塚治虫プロデュース)の沖縄海洋博覧会でのアクアポリス。100m四方の海上都市で、税金を123億円を投入して作られ200万人の来場者があったと言う。2000年に上海に曳航され沖縄から消えた。

次に、
黒川紀章の中銀カプセルタワーマンション。とても個性的な形をした集合住宅で、2本の主柱に140個のカプセル型居住空間が取り付いていて、いつでも取り替え可能と謳っていたが取り替えられることはなかった。単身者向けの都心の"セカンドハウスをとしてデザインされたが、一方利用者のニーズにより"事務所"としても活用された。"メタボリズムの象徴的建築と"して名を馳せた。黒川紀章の代表作という声も聞く。

第三に、
大髙正人、前川國男事務所出身の建築家。彼のメタボリズム建築は、坂出市人工土地だろう。土地不足をどう補うかのコンセプトで、建物の建つ上にもう一つ土地(RC造)を作り建物を載せた。結局地方では土地不足は起こらず、いまは活気のない空間だけが残っている。

皆、取り替え可能な建築を目指したが、全て取り替えらる事もなく、ただ経年していっただけだった。爾後建築にコンセプチュアルな運動は流行から遠のいた。皆建築家は内向きになっていった。
ただ思い返せばとても元気のいい時代であった事は確かだといまは思う。