東京海上火災保険本社ビル解体に一言

橘川雄一|2021.7
1974年秋、私は前川國男の前で他の入所希望者とともに面接を受けていた。
丸の内・高層ビル“美観論争”を経て竣工した“東京海上火災ビル“が建築雑誌に取り上げられている頃であった。
「なぜ“前川國男“か」という問い掛けに「近代主義の正統な表現者だから」と言う回答をした記憶がある。埼玉県立博物館の心に素直に入ってくる“美しさ“を忘れられなくなっていての回答だった。同席していた大宇根弘司さんがTMIB現場を終えて戻ってきた時期、「TMIBについてどう思うか」と言う問いを発した。ひよっ子の我々学生に真っ当な回答は期待していなかっただろう。ただ高さ31mを突き抜けた事の意味を学生に確認したかったのかもしらない。「31m高さでは必ず屋上に出ていた“塔屋”を消していない」と答えた人もいた。多分31mで切られていたビルが今度は100mで切られたことの残骸という気がしていたが、最初の超高層ビルでシカゴ派の真似事でない強いアイデンティティを示したTMIBを“尊敬している“ということを私は述べた。
当時就職企業人気NO.1の東京海上火災保険は就職シーズンになるとこのビルの足元に多くの学生が並びその光景をテレビ新聞が報じ、就職シーズンの風物詩的扱いをしていた。また新春箱根駅伝のスタートは読売新聞社前だったがスタート直後、丸の内の通過地点のメルクマルクに「集団は赤レンガ色の高層ビル前を通過しています」と実況は伝え、当時の東京海上火災の建物の存在感を強く印象づけていた。
その後入所できた前川國男事務所図書室で、ホオノキで作られた“(新)東京海上火災ビルツインタワー計画”の模型S.1/500を見た。斜に並んだ2棟の120m超の高層ビルだった。ツインタワー計画であることもその時はじめて知った。その佇まいを「きれい」だと素直に思った。のち80歳を超えての晩年その2棟目の計画案を練っていた前川國男の気持ちはとても理解できる。
時代は流れる。いまお堀前であっても新しいビルは高さ200m近い高さを誇っている。
「丸の内」には明治時代以降の歴史がある。コンドルが1894年から二十年間に亘って作っている赤煉瓦ビル3階建て高さ50尺(15m)時代、さらに1933年丸ビル建設以降高さ100尺(31m)ですべてのビルが頭を揃えた時代。東京海上火災ビルが100mを超えてからの昭和50年以降、そして200m超えとなる現代。
世界に誇る“丸の内”、明治という時代から建築が刻んだ“時(とき)”を地域に残すことが文明に対する敬意ではないかと思う。50尺、100尺、そして100m。三菱美術館に50尺を再現、新しい“丸ビル”に100尺の跡を、東京海上火災ビルに100mの時代があった事。
わたしの夢です。
橘川雄一
以上