本覚坊遺文"茶室"とは

橘川雄一|2024.4
国立国会図書館新館設計で、館内に"茶室"があった。所謂"館員にたいする文化活動支援のための施設である。
前川國男建築設計事務所は、図書室があるほど読書熱心の輩の集まっている事務所だった。当然"茶室"に関しても研究書ばかりでなく、実例写真集も多く有していた。
歴史上茶室のメルクマルクとなる名品、大徳寺塔頭の孤篷庵忘筌、小堀遠州が自ら設計した茶室と言われているが、他にも長い歴史で数々の名品(建築)があり、建築作法を頭にしっかり入れ込み、"国会図書館茶室"を設計した。実は「名品」が出来た。その時"日本建築"は素材がどれだけ大事かを知った。四方柾で指示した柱その木目のキレイな事、また床に張った玄昌石の目がキレイに揃っていた。建物が設計だけでないことを知った一瞬だった。

以下は余談、
茶人といえば「千利休」。時の権力者豊臣秀吉との繋がりを持つ。 彼も"政治力"、"堺の経済界との深い繋がり"、そして"文化的影響力"、所謂(いわゆる)文化的巨人。その彼が豊臣秀吉の怒りをかい「切腹」を命じられる。 命に関する価値観の違う戦国時代とはいえ、流石に多くの人が助命嘆願をした。否寧ろ利休そのものが豊臣秀吉との関係から"助命嘆願をすれば、秀吉も考え直すと皆が思っていた。
ただ現実は利休は嘆願せず従容と腹を召した。
長い間の疑問「なぜ腹を召したか」に対して井上靖の書がある、
「本覚坊遺文」。井上靖の独特の文体で構成された名著である。茶室の成り立ちから語る。「茶は戦国時代の武将の間で流行った」と。茶室があれだけ自然(天然)部材で構成されるのは、武将が存在を賭けて敵将と闘うその前夜に、わずかな時間で山中そこに立つ材を切って一夜かぎりの茶室を作る。武将はそこで一夜の茶を点てそして自分の人生の総括として、日の出とともに剣を立てて敵陣に戦いを挑む。そして多くの武将は落命した。「茶」とは「一期一会」という言葉があるとおり、永続性を前提にしていない。ただ千利休は武人ではなく文化的サロンにある"文化人"である。そう、死を前提とした「茶」を点てたことがない。その事に対して最後に「本当の茶」を点てるべきと心が強く反応し豊臣秀吉からの「死」を受け入れた、と「本覚坊遺文」は語る。
今は女人が多く参加する文化活動である。いま、戦国時代の「茶」が持つ強烈な精神性を感ずることもないだろう.ただ「茶」にはそん残忍な一面が潜んでいることは知っておいた方がいいとは思っている。