白河市歴史民俗資料館

橘川雄一|2024.9
1975年4月、大学院を修了した私は前川國男先生に受け入れていただき前川國男建築設計事務所に入所しました。全く"建築の何か"を知らぬままに中に飛び込み"議論大好き人間の集まり"である前川事務所の中で揉まれていた。その年1975年の一級建築士試験を無事通り一級建築士になったものの、"建築とは何か"を相変わらず模索しながら日々を過ごしていた。
1977年福島県白河市から"博物館"としての建物の設計監理業務発注が前川事務所にあった。
その前に1976年には隣接敷地に小さな音楽ホールを前川事務所は設計し竣工させていた。敷地一体を文化ゾーンとする計画に基づき第一期としての音楽ホールには、担当者として私の5年先輩が、コンクリートにまみれノイローゼになりながら、それこそ命を掛けて纏めていた。
その後を継いだ私は一級建築士を取得はしているものの、現場で"土とコンクリートにまみれて"の経験はなく、書いている図面をリアルな物の世界と一致させることはできずに設計作業を進めていた。ただ理念は立派だった。文化庁の指導的立場の方に助言を受けながら、博物館としての利用には十分な注意を払っていた。
Formも前川國男の赤鉛筆によるチェックが入り、ismに基づく"骨太の建築"を目指していた。建物ディテールは、S鋼機と作る展示ケース、各美術館での展示照明計画等々、参考となる事例はいくらでもある。それは効率的時間の使い方という意味で有り難かった。
横山建築構造設計事務所による構造計画は、その頃はもう柱梁ラーメン構造に統一されており、かつて木村政彦氏がいた頃の"造形と構造の一致"的な未知の領域に入る入るようなトライをしなくなっていた。私がいくら足掻いても反応して貰えず、構造はラーメン構造の選択となった。
施工者は大手T建設である。落札価格を知ろうと営業担当者は私の周りに付き纏っていたが幸いに私は"知らなかった"。
常駐監理は請けられなかったので、週に一回現場に通っていた。真面目に監理作業はした。ただ経験にとにかく不足があり、先輩に聞く手間がかかった事は記憶にある。先輩ごめんなさい。
建築としては予定通り10ヵ月で竣工した。ただコンクリートは竣工後、1冬越すまでは水分(湿気)が異常に出てくるので、建物も乾燥期間を必要としている。博物館(歴史民俗資料館)として機能開始は1978年の翌年、1979年とした。
建物は本当にシンプルな建物である。もともと3つの建物を広場を介して、文化ゾーンとしようとしたコンセプトがあり、この建物単体で中庭を設けるあるいは単体での仕草は必要としていなかった。やはり前川國男"近代建築の極意"である"シンプルさ"は極まっていた。
1979年10月のオープニング展は、「郷土白河の産んだ幻視の画家 関根正二展」だった。当時新婚だった私は妻に"関根正二展"の事を言った。妻は関根正二の絵だったら家にあるわよ」と言った。私は驚いた。
本当に家の押し入れに仕舞われていた。直ぐに白河市に関根正二の絵を所持している旨連絡し、開催最初の土曜日に現地に妻と車で持ち込んだ。東京国立文化財研究所影里教授が来てくださり、持ち込み絵画の真贋を鑑定した。「真作ですね」と言い、即新たに展示ケースが展示室な運び込まれ、70年ぶりに日の目を見ることとなった。翌日朝日新聞に「ひょっこり名画」と言うタイトルで記事になっていた。
現在2024年、"白河市歴史民俗資料館"は築後45年の風雪を耐え存している。
5年先輩が労して作った"音楽ホール"は、今はない。産業振興の為の施設に建て替えられている。大きな企業を持たない地方都市は"文化"よりも"産業"なのだろう。1970年代から80年代に掛けての上り基調の時代と違い、今の行政の作る建物は異なる。
その産業振興の流れの中で「白河市歴史民俗資料館」は、築後45年、白河市の"歴史"をずっと市民の心に刻み続けている。
当時20歳代の青春の1ページは、関根正二の絵画とともに色濃く心に残り、さらにこの生命力の強い建物に関われた事を白河市にそして前川國男に感謝しながら一建築家として幸せを感じている。